昨日の原稿を書いているうち、たいへん気になったことがありました。ひとつはメリー&ジャニー喜多川姉弟の父親、喜多川諦道が8歳で出家したというくだり、そしてもうひとつは、大谷貴義(享年85)をはじめとする大谷家と喜多川家とのかかわりです。大谷貴義とは、戦後最大のフィクサーとも称される和歌山県出身の実業家です。


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まず、喜多川諦道が8歳で出家した件についてです。喜多川諦道は1896年、大分県に生まれています。出家したのちは和歌山県高野山の導師となり、1924年、27歳のときに、真言密教の布教のために世界一周をめざして出国します。で、結局、帰国するまでの9年間滞在することになったロサンゼルスで、メリー&ジャニーとそのあいだの長男、真一という3人の子どもを授かっています。


8歳で出家、といわれて思い浮かぶのは「稚児」です。「稚児」には、ふつうに“乳児、幼児”を示す場合と、神社や寺のお祭りで行列に参加したりする“稚児”、それから大きな寺院における剃髪しない“少年修行僧”を示す場合の3つのパターンがあります。


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諦道の場合は“出家”しているわけですから、明らかに“少年修行僧”であったわけです。どこの寺に入ったのかはわかりません。本名も、両親の名前もまだわかりません。しかし後年、和歌山県高野山の導師となり、さらにロサンゼルス時代は高野山真言宗米国別院の第3代主監を務めていますから、とうぜん真言宗の寺に入ったはずです。


つまり喜多川諦道は8歳にして、“少年修行僧”を受け容れる余裕のある真言宗の大きな寺にあずけられた、ということになります。真言宗と天台宗は、古く平安時代のころから、こうして稚児を受け容れる環境をもっていたようです。


Wikipediaの「稚児>大規模寺院における稚児」の項には、以下の記述があります。

《真言宗、天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、このような稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(ただし上稚児は対象外)。中世以降の禅林(禅宗寺院)においても、稚児・喝食は主に男色、衆道、少年愛の対象であった。》


“上稚児”というのは行儀見習いなどのために寺にきている皇族や上位貴族の子弟、“喝食”とは禅宗での呼び名であって、一般には“下稚児”のことであり、芸道などの才能が見込まれて雇われたり、または不良僧侶に売られてきた子どもたちのことをいいます。さらに、これら“上稚児”と“下稚児”のあいだに、頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う“中稚児”がありました。


仏教の世界にも、子どもを対象にした身分制度があるわけです。いはんや世俗をや、という感じです。喜多川諦道は、もちろん“中稚児”か“下稚児”です、ロサンゼルス時代は、にぎやかなこと、お祭りが好きな主監さま、と慕われていたらしいので、あるいは芸道の才能が見込まれた、ということもあったのかもしれません。詳しい調査ができませんから、どうしても推量になってしまいます。


ただ、長じて和歌山県高野山の導師になってからの、自らを“やくざ”とか“遊び人”と称しての放蕩三昧に、この子ども時代の経験が影響していたということはいえるかもしれません。また、諦道には生来こうした資質があり、それが息子のジャニー喜多川に受け継がれた、と考えることもできなくはないでしょう。危険な考えですが。


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さらに、ジャニー喜多川は朝鮮戦争時代に韓国の戦災孤児たちに英語を教える任務に就いていた、とか、除隊後にも渋谷にあったワシントンハイツ内で子どもたちに野球を教えていた、といった資料の記述を目にすると、蠱惑的な連想に引きずられそうになってしまいます。しかし血脈、血筋といった文脈をここに持ち込むのは、やはり遠慮しておきます。


諦道が、のちに導師を務める和歌山県高野山に入ったのは8歳の出家時であったのか、それ以後のことであったかは、はっきりしません。しかし、おそらくは8歳のときのことだったろうと推察します。というのは、喜多川諦道の両親が一時期、和歌山の有力な家柄である大谷家に世話になっていたことがあるからです。そのむかしのつてを頼って、両親は諦道をあずけたのだと思うのです。ここからは大谷家と喜多川家のつながりの話です。


のちに諦道が世界一周をめざしたときに支援してくれたのも、大谷家でした。資料には戦後最大のフィクサーと呼ばれた大谷貴義の援助、としているものがほとんどのようです。しかし、諦道が日本を発ったのは1924年です。1905年生まれの大谷貴義はそのとき若干19歳。大谷貴義個人の援助というよりは大谷家の援助、と考えるほうが自然でしょう。




喜多川家がロサンゼルスから帰国して(1933年)大阪で暮らしたのち、1942年になって子どもたち3人が和歌山県東牟婁郡勝浦町に疎開したのも、大谷家が便宜を図ってのことでした。疎開先の「中ノ島」の南紀勝浦温泉は大谷家の所有であったようです。メリー15歳、ジャニー11歳のころです。大谷貴義は37歳。おそらく、ここでメリー&ジャニー喜多川姉弟と大谷貴義との面識が生まれたのだと思います。


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気になるのは、1人大阪に残った諦道が、これ以降、大谷家とはもちろん、子どもたちともあまり交流をもたなかったように見えることです。仏教からも離れたようです。なにかの事情が生じたのでしょう。妻の栄子はロサンゼルスから帰国した翌年の1934年に亡くなっています。


帰国後の諦道は、大阪道頓堀にある高野山真言宗の寺、法案寺の住職の世話で、橋本三郎という人物のもとで働いていました。橋本三郎は、大阪の繊維商社、つまり船場の大店「田村駒」系企業の工場長です。工場は奈良県南葛城郡御所町(現、御所市)にありました。


諦道が橋本三郎の工場へ大阪から通っていたのか、あるいは工場以外の仕事に従事していたのかはわかりません。ちなみに、住職が世話をしてくれた大阪道頓堀にある高野山真言宗の寺を「法安寺」と表記してある資料が目立ちますが、正しくは「法案寺」です。


戦中「田村駒」社長の田村駒治郎から野球の球団をあずかっていた橋本三郎は、戦後になってそのオーナーの座におさまります。「ゴールドスター」です。のちの大映スターズ→大映ユニオンズ→毎日大映オリオンズ→千葉ロッテマリーンズです。諦道は「ゴールドスター」「大映スターズ」でマネージャーを務めています。1946年から1949年(53歳)までのことです。


そののち、諦道は橋本三郎から替わった「大映スターズ」オーナーの親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになります。そしてやがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去することになります。晩年の諦道について、いまのところわかっているのはこれだけです。




1949年から亡くなる1960年代半ばまで、諦道はどのような暮らしぶりであったのでしょう。葬儀には、メリーもジャニーも訪れなかったといいます。ここまで強く父親を拒絶するのには、たぶんメリー&ジャニー姉弟の母であり、諦道の妻である栄子の死が深く関わっているような気がします。栄子は1934年、京都で没しています。


で、大谷貴義です。超大物です。Wikipediaの記述を一部引用しておきます。

《宝石卸を本業として「日本の宝石王」と呼ばれる一方、政財官界やアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された。特に、元首相の福田赳夫とのつながりが強く、「福田の影に大谷あり」と言われた。公の場にはあまり姿を現さず、代々木上原に1000坪の豪邸を構え、十数人の使用人に囲まれて過ごしたため、謎のフィクサーとも呼ばれた。》




大谷貴義の肩書きには、主なものだけでも「裏千家最高顧問」「そごう最高顧問」「松下電器産業特別客員」「産経新聞社顧問」「毎日新聞社筆頭社友」「大阪産業大学名誉総長」などがありました。


また、マスコミからは、「最後のフィクサー」「闇の帝王」「日本の宝石王」「代々木の怪富豪」「日本の政財界の裏側で最も気になる人物」などと呼ばれていたそうです。代々木上原の1000坪の豪邸跡には、いま『プラウド上原』というマンションが建っています。


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大谷貴義が亡くなったのは1991年です。SMAPは結成3年目、この年はじめて日本武道館でコンサートを開催しています。近藤真彦が『3年B組金八先生』(TBS)の「たのきんトリオ」として人気を沸騰させたのは1979年です。「ジャニーズ事務所」の創業は1964年。


芸能界で活躍するようになったメリー&ジャニー喜多川姉弟と大谷貴義が接触した可能性は、おおいにあります。そのとき、やり手のメリーが大谷貴義の懐に飛び込んでいったとしても不思議ではありません。いたるところで噂されているメリーの“政財界とのコネクション”は、ここにそのひとつの糸口がありそうです。


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そもそもは、メリー&ジャニー喜多川への興味からはじまった前回と今回の原稿です。しかし結果として、その父親である喜多川諦道についての記述が多くなりました。時間とパワーが許せば、じっくりと精査してみたいとさえ思います。


それは、明治末期から大正を経て昭和初期にいたる時代の魔力みたいなものと、諦道の、人生の前半における破天荒な生き方がシンクロしているように感じるからです。明治末期から昭和初期は、日本がはじめて自ら世界に挑んだ時期であり、またどこか狂的な精神の躍動の時期でもありました。


そういえばちょうど、『ヒデ&ジュニアのニッポン超安全サミット』(「フジテレビ」1月22日放送分)で使用された日本地図の、四国がオーストラリアに、九州がアフリカ大陸になっていた、という奇妙な出来事があったばかりです。フジテレビはさっそく「不適切な日本地図を引用してしまいました」とホームページ上で謝罪しています。


しかしこの地図には元ネタがあって、出口王仁三郎の大本教などが唱えていた“日本は世界の縮図”という考え方を示したものです。それによると、四国がオーストラリア、九州がアフリカ大陸の写しというだけでなく、本州はユーラシア大陸、北海道は北アメリカ大陸に擬せられています。


まあ、日本地図を右に90度倒して眺めればよく似ている、という話です。しかし、こういうオカルティズムの後押しをひとつの精神的な支えとして、戦前の日本は世界に打って出ていったわけです。諦道の世界一周の目論見も、そういう精神状況が産み出したものといえるでしょう。


そして第2時世界大戦での敗北があり、アメリカの占領下におかれるという時代の流れは、そのまま諦道の人生のなりゆきのようです。でもってさらに、今度は戦後の混乱のなかから、諦道の子どもたちがそのアメリカと強い結びつきをもちつつ成長していくわけです。ドラマですねー。


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喜多川家の歴史には、考えさせるさまざまな隠喩や符牒が埋め込まれているようです。ほんとうに、時間とパワーが許せば、日本のある家族の物語として追ってみたいと思うほどです。ああ、それにはメリー&ジャニーが元気なうちに話を聞いておかなければなりません。


ジャニーはともかく、メリーは怖そうでいやですねー。話の内容を確認しようとすると「私の話が信用できないのっ」と怒りますね、絶対。いやですねー。ぜひ、どなたかかわりにお願いしたいものです。(了)


 
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